2020/7/17 SNSの功罪  

SNSの功罪
~批判と誹謗中傷の境目は?~


はじめに~

近年、急速に普及が加速しているSNS。SNSはオンライン上で他の人と交流ができたり、自分の意見を好きなように言えたりする、便利なツールです。しかしその一方で、今年上旬に起きた、女子プロレスラーの方が自殺してしまうという悲しい事件の一因になったのもSNSでした。SNSの気軽さのかげには、「ことば」をいとも簡単に相手を傷つける「刃物」へと変える威力があることを誰もが実感した事件であったのではないでしょうか。

ではその「刃物」は、何を境目にしてなり得るのか。7月17日のゼミでは、「誹謗中傷と批判の境目はどこにあるのか」というメインクエスチョンを中心に、SNSについてゼミ員それぞれの考えを深めました。

当記事では、今回のファシリテーターである富岡さんと高橋さん(以下敬称略)に話を聞きながら、企画を振り返りました。

―SNSをテーマに取り上げようとしたきっかけ。

館)私は今回の議題は前期の中でも特に取り組みたい内容でした。プロレスラーの方が亡くなった事件をきっかけに、ことばの持つ力について改めて考えてみたいと思ったからです。誹謗中傷をする人の中には、もちろん悪意を持って発言している人も多くいますが、自身の正義感をただ主張しているだけだ、という人も存在します。自分の正義感を押し付けることが、誹謗中傷になってしまう可能性もあるのです。誹謗中傷と批判の境目について考えることは、自分の発した言葉を客観的に見つめられるようになるきっかけになり得るのではないか、と思いましたが、今回のテーマについてファシリテーターのお二人はどのように考えていましたか?

髙橋)コロナ禍でコミュニケーションツールとしての役割が大きくなった反面、その裏側で悲しい事件の数々の引き金にもなっているSNS。ゼミすらもオンラインで活動する今だからこそSNSの在り方について改めて見つめ直したい、そう思ってこの企画を考えました。そこでSNSという枠組みの中でも、特に私が興味を抱いていたのが『批判』と『誹謗中傷』の境目です。この両者の違いはSNS上ではとても曖昧なものになっていると思います。そして文字という形でしか相手に届かないSNSだからこそ、ことばが凶器と化したときの威力はとてつもなく大きなものになります。SNSは自分の意見を主張することのできる場であることは間違いありません。しかしそこで私達はどうあるべきか、今年前期、自分の中でいちばんモヤモヤしていた疑念をことゼミメンバーにぶつけてみたいと思ったのがきっかけですね。

富岡) 匿名性の問題に興味があったからかなぁ。
自分にとって理解できないからあなたがやってる事をやめろ、とか、私はこれが苦手だからあなたのやってる事を理解できません、とか、あなたのためを思うとこういう行動は看過できません、とか、そういう言葉が(SNSにおいて特に)匿名性を纏うと突然凶暴になることが不思議でたまらなくて、そういうのを議論してみたいなぁと思ったからですね。

―いち参加者としてこのテーマについて思ったこと。

中桐)私は、誹謗中傷はなぜ起こるのだろう?と言うことについて考えてみました。理由の1つとしてSNSの匿名性から、何を言うのも自由だという意識が生まれることが挙げられるのではないかと思いました。SNSではたとえ自分の意見が他人を傷つけるものであっても、相手が自分を特定し、反撃してくるケースはほとんどありません。また、SNSという開かれた場での発言は、自分と同じ意見を持った人たちからの反応・共感も得られ、誹謗中傷による一体感さえ生まれます。一体感が生じると誹謗中傷が勧善懲悪となり、正義のヒーロ的意識が伴うようになります。こうなると誹謗中傷が正当化され、手の付けられない状態になるのではないかと考えました。誹謗中傷がエスカレートすると冒頭の事件のように命を落とす人すら出てきます。SNSを正しく使うためにSNSを利用するすべての人が一度誹謗中傷について考えてみるべきだと感じました。


ゼミ開始~

1.せやろがいおじさんの視聴 

メインクエスチョンを考えていくための導入として、まずは「せやろがいおじさん」という方のYouTubeを視聴しました。せやろがいおじさんは時事問題などについて意見を述べているYouTuberです。せやろがいおじさんは言葉や話し方を工夫し、「誹謗中傷=ダサいこと」だという認識を植え付けることで誹謗中傷を無くそうとしていました。また、動画の中では誹謗中傷と批判の違いについて寿司におけるワサビを例に挙げて説明していました。ワサビを攻撃性に例えると、誹謗中傷はワサビの量が多い寿司、批判はワサビの量が適切な寿司だということです。批判と誹謗中傷はどちらも攻撃性を含むものの、その度合いによって批判が誹謗中傷になりうるのだというのがせやろがいおじさんの主張でした。

中桐)せやろがいおじさんのように「SNSは匿名だから誹謗中傷をしても罪にならない」という考えが古いのだと世間に広めていくことは、SNS上であっても自分の発言に責任をもつことの大切さを多くの人に気づいてもらうきっかけになるなと思いました。

また、ここまで誹謗中傷をすることについて否定的に捉えてきましたが、誹謗中傷に対する批判が誹謗中傷になることもあります。例えば、SNS上で有名人に対する誹謗中傷があったとき、その有名人擁護派の人が誹謗中傷をした人に対して強い批判(≒誹謗中傷)をするといったケースです。誹謗中傷をなくそうとした行動であっても、行き過ぎれば人を傷付けるものになりうるのだと考えると、誹謗中傷を無くす事の難しさを感じました。

2.ブレイクアウトルームでの話し合い

話し合い時に使用したオンラインホワイトボードの様子

せやろがいおじさんの動画を視聴した後、ブレイクアウトルームに分かれ、感想を共有しました。出た感想をいくつかピックアップしていきます。

―誹謗中傷はなんで止まらないのかっていうと、そこに一体感が生まれるからではないかなと。デモみたいに、みんなでなにかしているという達成感がうまれる。

日本人は特に集団意識が強く、この傾向にあるかなぁと。みんながやっているから自分もやる。少数派になることはいけないことだ、と考えてしまう人も少なくありません。周りに流されずに、自分の意思を保ち続けるというのは、なかなか難しい・・・。

―SNSってすぐミュートにしたりして考えの合わない人を見ないようにできるから、どうしても似たような考えの人でまとまりがちですよね。

これは、誹謗中傷に一体感が生まれるということに関連していると思います。自分と同じような意見の人達と集まることで、自分たちの意見が絶対に正しいと錯覚してしまうことがあります。これは周りの人の意見を排他的に捉えることに繋がるのではないでしょうか。

―誹謗中傷をする人はどんな気持ちなのか知りたい。彼らはどんな「おもしろさ」「気持ちよさ」を感じているのだろうか。

誹謗中傷をする人の中には、「するつもりはなかった」人と、「最初からわかっていてした」人の2種類があるように考えられる気がします。後者は、誹謗中傷することに快楽を感じている人が多いのではないでしょうか。このような人に、「誹謗中傷はやめようよ」と言っても、あまり効果はないと思います。また、そういった人は特定の対象を誹謗中傷するのではなく、常に対象を探している傾向があるのかなと。

3. 全体共有

ブレイクアウトで各自話し合ったあと、全員で考えたことの共有をしました。すると、話していくうちに、メインクエスチョンの解釈の仕方が2つに分かれていることに気が付きました。

➊「批判」とは何なのか。
❷ SNSの誹謗中傷を止めるにはどうしたらよいのか。

館)私は、❷の方で解釈をしていました。それは、元々SNSの在り方について考えたいと思っていたからだと思います。もちろん、SNSだけに限定して話を進めることも出来ますが、批判と誹謗中傷の境目を考えるのであれば、SNSだけでない方がいいのではないかと思いました。

ここからは、❶の解釈で全体議論を進めていきました。

そもそも批判とは何を指すのでしょうか。例えば、論文の批判は誹謗中傷に当たらないとは言い切れません。その判断は、誰かが決められるものではないはずです。

―批判には、「上手い批判」と「下手な批判」があるのではないでしょうか。上手い批判は、その場を盛り上げたり、何か考えさせられたりするような批判。その一方で下手な批判は誹謗中傷にもなり得るものです。もちろん、場面や状況によって良い批判と悪い批判は変化します。しかし、その境目を理解することはいい批判につながるのではないでしょうか。

ここで1つキーポイントとなるのが、「相手に寄り添うこと」だという意見が出ました。—話す相手の人柄、人格を理解した上で批判をする。相手のことを理解しているから、誹謗中傷にはなりにくいのではないでしょうか。自分のことしか考えていない批判と、相手のことを考えた批判。これは境目を考える大きな判断材料となりました。

4.企画を終えて

―ファシリテーターのお二人は議論を終えてどんな感想を抱きましたか。

髙橋)テーマを設定したときから、このメインクエスチョンに対して1つの答えを求めるつもりはありませんでした。この問題については『答えを導き出す』ことよりも『目を向けて考える』ことが重要であると考えたからです。miroでのチームディスカッションでは、SNSという抽象的で大きな枠組みだったからこそ、議論の視点が多様化し、それぞれのチームからメインクエスチョンに拘らない様々な意見をいただくことができました。終盤、ゼミ員の中でメインクエスチョンに対する意識の違い(何を重要に思っているのか)が見えてきたのが本企画のいちばんの収穫であった反面、今後もっと深めていきたいと思いました。

富岡)思ったより不完全燃焼だったというか、こちら側の勉強が足りなかった!という気持ちでいっぱいでしたね。誹謗中傷ってなんなんだろう、批判ってなんなんだろう…

そういう定義をコミュニティの間で定めていく必要があるのだろうと思いました。
誰がどんな言葉を用いるか、立場、社会、関係性、そういったところを無視してこれがスタンダードな解釈だ!とすることの難しさも知りました。


~最後に~

館)今回、誹謗中傷と批判の境目を改めて考えてみて、明確な答えは出せなかったものの、自分の中で批判と誹謗中傷の定義が見えてきたような気がします。私はこの議題をゼミで扱う前、「どうしたら誹謗中傷を止めることが出来るのか」という視点からしか考えられていませんでした。しかし、そのことを考えるにはまず、批判や誹謗中傷そのものについて考える必要があると感じました。本質を理解することで、そこから誹謗中傷が問題となっている現状についてより理解を深められると気が付きました。

中桐)最近、芸能人に対する誹謗中傷が問題視されています。芸能人は実際に存在するにもかかわらず、なぜか遠く感じ、フィクションとノンフィクションの境目が曖昧になりやすい存在です。芸能人に対する憧れが理想を創り出し、その理想から外れた行動をとった芸能人に誹謗中傷が集まります。なんと身勝手な行動ではないでしょうか?相手が誰であろうと、自分の発した言葉によって傷つく人がいるという意識を持つべきだと思います。「あなたのためを思って」「浅学で申し訳ないのですが」「分からないので聞きたいのですが」といった誹謗中傷の定型文すらできつつある中で、どのように誹謗中傷をなくしていくかはSNSを利用する全ての人の意識に関わる問題だと思います。( 館、中桐 )

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