2020/8/7 ことば×障害

○春学期最後となる今回のことゼミの活動では、「ことば×障害」と題し、吃音という障害から広義的な意味での障害について考えました。

目次
1.吃音について・今回のゼミの進み方
2.きよしこを読んでのゼミ員の感想意見
3.障害への理解についてのゼミ員の感想意見
4.ことば×障害について考えたこと(執筆者より)
 ◎ひいきじゃない特別扱いを知ってもらう大切さ(髙尾)
◎障害を考える(細野)

1.吃音について・今回のゼミの進め方

今回のゼミ活動は、自身に吃音があるファシリテーターの「将来ほとんどの者が教員になることを目指しているこのゼミで吃音、ひいては障害理解を促進できるような活動がしたい」という想いから始まりました。

○吃音とは何か?

吃音(きつおん・どもり)は、話し言葉がなめらかに出ないという言語障害の1つであり、「・・・からす」「かーーらす」「か、か、らす」という様な非流暢な発音が特徴です。体質的要因・発達的要因・心理的要因など様々な発症原因が挙げられる障害です。言語障害という障害を学べる大学は少なく、言語障害に詳しい教員が少ない現状となっています。

(参考:国立障害者リハビリテーションセンター研究所HP)http://www.rehab.go.jp/ri/departj/kankaku/466/2/

○今回のゼミ活動の進み方

重松清さんの「きよしこ」という本を題材にし、そこから吃音と障害についての理解を深めました。この本は、白石きよしという1人の少年の、小学校から大学受験までを描いた作品です。きよしには、吃音があります。色んな人やものに出会って、関わって、色んなことを感じて、大切なことを伝えようともがいて強く生きていくきよし。今回はそんなきよしの人生の物語を、吃音、障害、教育、ことば、多文化共生、国語、特別支援教育などの視点を持って読みました。

この記事では「きよしこ」を読んでのゼミ員の感想意見、障害についてのゼミ員の感想意見をいくつかとりあげ、それに対する執筆者の所感を載せています。

2.きよしこを読んでのゼミ員の感想意見

・吃音の理由を幼少期の精神的ストレスではないかと言われていたが、これは親も責任を感じてしまいそう。保護者のメンタルケアも必要だと感じる

・主人公は文章を書くことが得意だったけれど、特技もなく成績も平均より低い吃音の子がいたら先生はどんな風にその子を認めて褒めてあげられるんだろう

・「吃音なんかに負けるなと励ましてやってくれ」という手紙に対して「ぼくはぼくで、君は君だ」と言ったのが印象的だった

3.障害への理解についてのゼミ員の意見

・障害と自覚がない、または病名が出ていない人たちへの支援は難しそうだと考える。周りからより厳しい目を向けられることに加え、親への対応が難しいだろう

・周りの子どもの理解・認識のための教育が必要だと感じた

・吃音に限ったことではないが、当事者が近くにいたり友達にいたりすると驚くことがなくなる。知らないからこそ「怖い」「変」と感じてしまうのだと考える。「知らない」は怖いことだ

4.ことば×障害について考えたこと(執筆者より)

○ひいきじゃない特別扱いを知ってもらう大切さ(髙尾)

この記事の執筆者は現在特別支援教育を専攻していますが、まだ勉強不足のため知識不足の部分があることをご了承下さい。今回のゼミ活動では、自分の専門としている分野について様々な学科の人の意見を聞けて新鮮でした。普段とは違う観点から考えられることが多く、勉強になりました。今回の話し合いで特に重要だと感じたことは、上記の障害への理解についてのゼミ員の意見でもでた「周りの子どもの理解・認識のための教育が必要である」という考え方です。他のゼミ員の意見にもありますが、人は知らないとそのことに恐怖を感じ避けてしまうことや他との違いをあげつらうこともあります。身近にある障害から広く障害に関する知識を伝えていくことが大事だと思います。そして、この教育をするときに教員は「合理的配慮」についても教えるべきだと思います。合理的配慮とは、障害のある人が障害のない人と平等に人権を享受し行使できるように行う個別の調整や変更のことです。下の図をご覧下さい。

#Universalincome

左の図は子どもたち全員に対して同じ支援が行われています。そのために1番右端の子には適切な支援が行われず、野球を見ることが出来ません。右の絵の様に子どもたち1人1人の特性に応じた支援をすることで全ての子が野球観戦出来ています。このような合理的配慮が行われている状況をつくることが学級経営で必要となっていきます。しかし、この合理的配慮は時として子どもたちには教員がひいきをしているように見えてしまいます。だからこそ子どもたちに障害理解教育を行う際はこの合理的配慮についての説明も行い、1人1人違う条件の下生きており、必要とする支援も違うことも伝えるべきだと思います。

今回の活動では、障害児との関わりの経験談やこれから教員になった際にどのように関わっていくかということをゼミ員と話すことが出来ました。話し合いの中で疑問点やもっと深く勉強したいと感じた話もあったため、より活発で深い話し合いをゼミで行いたいと思いました。

○障害を考える(細野)

私たちは、「障害」という言葉を当たり前に使っています。
教育学部で学んでいると、特別支援教育についての授業も受けます。

「障害には、こういう種類があって…こういう特徴があって…」とか、
「特別支援の実施形態としてはこんなものがあって…」とか。

どれも大事なことですが、そもそも、
障害の原因はどこにあるのか。
「障害」をもたらしているものは何・誰なのか。
障害を持っているとされた本人は、本当に「障害」だと思っているのか。
そう思わされているだけなのか。

今回のゼミの活動で、私たちはこれらの問いと向き合いました。

障害の捉え方 ~医学モデルと社会モデル~

ここでカギになる考え方が、

障害の医学モデルと障害の社会モデルです。

障害の医学(個人)モデルとは、障害の原因は個人の心身機能であるという考え方を言います。この場合、障害を解消するために必要なのは、個人の努力や訓練、医療や福祉の観点からの支援だと考えます。

一方、障害の社会モデルとは、障害の原因が、健常者を前提に作られた社会の仕組み、設備にあるとする考え方です。マイノリティを無視して作られた社会が障害を生み出しているから、障害の解消は個人ではなく社会の責務である、と考えます。

参考:公益財団法人 日本ケアフィット共育機構HP https://www.carefit.org/social_model/

誰かが「生きづらい」「困難だ」と感じているとき、本人ではなく組織や社会の仕組み、大多数の考え方が原因なのではないかと目を向けることは、みんなが暮らしやすい社会を作るために重要なことだと思います。

本当の共生社会を作るためには、ひとりひとりの個人に対する思いやりや同情だけでは足りないのだと認識させられました。それらもとても大切なことですが、「障害を持つ人を助けてあげる」という気持ちだけでは本質的な解決にはならないのではないのかなと考えます。

私たちはどうしても、大多数を「普通」だと思ってしまいます。無意識に作りあげられた「普通」の基準によって困難を抱える人がいます。だから、「じゃあそもそも、その障害を生み出す根本はどこにあるの?」という視点を持って、社会の仕組みそのものや前提に潜む原因を見出そうとする姿勢が必要なのではないでしょうか。

これは、障害に限ったことではないと思いませんか?

なんで障害なのだろう

『きよしこ』の話に戻ります。きよしの吃音は、「この時の経験が原因なのではないか」と、病院の先生によって理由付けされました。小学三年生の時の担任の先生は、きよしの言葉のつまりを「障害」だと言い切り、「きよしは障害児なのだ」と言いました。

「障害」をもたらしたのは誰なのでしょう。
本当にきよしの言葉のつかえは、「障害」なのでしょうか。
「障害」は、本人が元から内部に持っているものなのでしょうか。

ゼミ員の、M先輩の体験談を紹介します。
M先輩のクラスには、吃音があるA君がいました。
M先輩や他のクラスメイトは、「話すのがちょっと苦手なんだな」くらいに思っていて、普通にクラスメイトの一人として、とても親しく仲良くしていたそうです。
しかしある年から、A君は特別支援学級に通うことになり、M先輩とはクラスが別れることになりました。その時初めてM先輩は、A君が「話すのが苦手」ということを、「吃音という障害」として認識したのだと言います。

「話すのが苦手」ということと「吃音という障害」ということが同じことを指したとしても、この言葉の違いだけで大きく変わる世界があります。

このエピソードから、「障害」は、本人が最初から内部に持っているものではなくて、外部(社会、環境)によってつくられる概念なのではないかと考えることができます。

ここで、先ほど紹介した「障害の社会モデル」の考え方で「障害」を捉えて、上のエピソードとつなげてみます。

「障害」という枠組みを作っているのはマジョリティの側で、
大多数にとって普通ではないと思われるから、「障害」となっているのだと考えることができます。
つまり、大多数という外部の存在によって「障害」という概念が生まれていると考えることができるのです。

そもそもみんながすらすら話せることを前提に作られた社会だから、その社会において吃音が「障害」となっている。

大多数の考える「普通」を、マイノリティに押し付けてはいないか、
または自分が押し付けられていないか。

という視点を持ってみると、社会の仕組みや前提そのものを変える必要性が見えてきませんか。

知識を持ちつつも内面を見る

じゃあ障害という枠組みは要らない?となると、そういうわけでもないよなと私は思いました。名前が付けられて、種類が分けられているからこそ、適切な理解ができると思います。 大切なのは、知識を持ちつつも内面を見ることだと思います。

知識がないということは怖いです。もし知識がなければ、
「勉強をちゃんとやっていないからだ」
「もっと努力すればできるだろう。頑張れ」
「真面目にやりなさい」
親や教師や周りの人は、こんな根性論をぶつけてしまうかもしれません。

ひとりひとりに対する合理的な支援の仕方や社会の変えていくべき部分を見つけるために、

吃音というのはこういうもので、
こういうパターンがあって、
こういう時に不便があって、
こういう支援が必要で、

という知識の整理が必要だと思うのです。

そして、知識を持ったうえで、障害があるという人の「何をすることができるか(できないか)」という行動の可否の面だけに捉われてはいけなくて、「どんな人なのか」という内面と向き合うことが大切なのだと思います。

「障害者」としてくくることで、その子個人の考え方や性格、色がすべて覆われてしまってはいけないのです。たとえ言葉がつかえてしまっても、相手に耳を傾けて欲しいのはそこではなくて話の中身であるはずです。

これは、障害の話だけではなくて、すべての人と関わる時に大事なことだと私は思っています。きっとこういうことを心に留めていたら、児童生徒の心に本当に寄り添うことができるのではないかなぁ、と考えました。

おわりに 相手を理解し寄り添うこと

教員という仕事は、たくさんの子どもたちと向き合う仕事ですよね。児童生徒ひとりひとりのことを理解して関わっていかなければなりません。また、教員という仕事に限らず、誰もが人と関わって生活しています。そうやってたくさんの人と関わっていく中で大事な「思いやり」とか「優しさ」というものについて、『きよしこ』を読んで私自身とても考えさせられました。

きよしと登場人物との関わりを読んでいく中で、自分が「正しいこと」「思いやり」と思ってやっていたことや見聞きしていたことは、

意識していなくても実はそれは自己満足なのではないか
本当はただ同情しただけだったのではないか
ということをぶつけられました。

「困っている人を助けたい」という気持ちは大切だと思います。けれども、それが「悩んでいる」「苦しんでいるんだ」と一方的に自分のものさしで決めつけた、「かわいそう」という同情や哀れみのような感情なのではないかという見方を忘れてはならないと感じました。

人やものとたくさん関わりいろいろなことを知り感じることを通して、自分のものさしの存在に気が付くことが、みんなにとって生きやすい社会への第一歩なのだと思います。

今回取り上げた本『きよしこ』や、「障害の社会モデル」という考え方は、そういった自分のものさしに気づいて見直すための、ツールのひとつになるのではないでしょうか。

(髙尾、細野)

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