2020/7/3 古典は不要か?

はじめに

学校に通っていた方なら、「この科目勉強する必要ある?」と1度は思ったことがあるのではないでしょうか。ことゼミの活動第3弾では、学校教育において「古典」を教える/学ぶ必要性について考えました。

目次】

  1. 古典は社会に必要?―賛成、反対の立場に立って考える
  2. 古典を学ぶのは何のため?―国語教育との連関
  3. ゼミ内での議論の論点とまとめ―おわりに

予め断っておくと、私は国語科に所属する人間ということもあってか、古典には大きな苦手意識を抱いていません。そのため、どちらかと言えば「古典は必要だ」という立場にいます。ただし、この記事の執筆にあたっては、できるだけ中立の立場で語っていきたいと考えています。


1.古典は社会に必要?―賛成、反対の立場に立って考える

古典について苦手意識を持っているのは、理系の生徒を中心に多いと考えられます。そうした苦手意識を持っている方の多くは、「古典は要らない」「勉強しても何の役に立たない」と思うでしょう。

古典は必要か不要かという議論は、今日SNSでも盛り上がっているテーマです。また、インターネットで「古典 必要」などのキーワードを検索すると、これにまつわる多くのページが表示されます。

では、まずは「古典は不要だ」とする立場の意見をまとめます。


古典不要派》

(■は立場の意見、→以下ではそれに関する私個人の解釈を簡潔に述べています)

プレゼンテーション力、ディベート力に結びつかない

→現代文だけあれば、社会で生きる力は身につく

→古典を学んでもいいが、優先度は低い

自分が古典を書く側にならない

→実践的ではなく、有用性に乏しい

内容だけなら、現代語で学べばよい

→現代語訳されたわかりやすい形にしよう

→難しい文法項目をわざわざ学習する意味がない

古典は有害だ

→現代社会の常識と適合しない内容が多すぎる

―もう少し踏み込んで(私の具体的な解釈)―

プレゼンテーション力、ディベート力は、現代社会で必要なスキルです。これらを習得する機会が学校教育には求められますが、それは古典に求められることはなく、現代文の授業だけで十分だというのが不要派の意見として挙がっています。

自分が古典を書く側にならないというのは、もっともです。21世紀に生きる私たちは、現代の文法、語彙に則した日本語でコミュニケーションしています。そのため、わざわざ古い日本語を使うことはめったにありません。

古典不要派の中には、古典作品で書かれている内容の有用性を認める人もいるようです。ただし、内容を学ぶだけなら、時間をかけて古典文法を学習するのではなく、現代語に翻訳された教科書を用いて学校で教えればいいという意見です。

古典は有害だという意見は少々過激に聞こえます。ですが、古典で書かれている内容の全てが奨励されるものではないことも事実です。ポリティカルコレクトネスの観点から考えれば、旧道徳や男女差別思想が見られる古典を学ぶべきではないのかもしれません。

※ポリティカルコレクトネス…性・宗教・民族などの違いによる差別・偏見を、社会制度や言語表現に含まないように是正すべきだ、という考え方。(『新明解国語辞典』より一部抜粋)

一方で、古典必要派はどう考えているのでしょうか。


《古典必要派》

(□は立場の意見、→以下ではそれに関する私個人の解釈を簡潔に述べています)

読解力の養成につながる

→読みにくい文章を理解しようとすることこそが大事なのだ

古典的な言い回しが現代にも残ってい

→「仰げば尊し」「急がば回れ」といった表現は古典を学ばなければ理解できない

→文法学習も欠かせない

長い間継承されてきただけの価値がある

→社会に必要ないからといって、学ばなくてよいものではない

教養として学ぶ必要がある

→古典的な思考を身につけるべきだ

→現代社会においても必要な「知」である

―もう少し踏み込んで(私の具体的な解釈)―

読解力の養成につながるというのは、古典を英語や現代文と同じように考える立場です。言語運用能力を身につけるために、文章を読解する素材の一つとして古典を学ぶべきだということでしょうか。

古典的な言い回しが現代にも残っているという点には、うなずけます。ジブリ映画にも「風立ちぬ」というタイトルの映画がありますが、「ぬ」という助動詞がどういう働きをするのか分からなければ、タイトルの意味を理解することは出来ません

古典は、1000年以上も前から現代に至るまで残り続けているものもあります。現行の教科書にも採録されている『万葉集』は、770年ごろの成立だと言われています。『万葉集』が絶えることなく受け継がれてきたというその事実に、一定の価値を見出すことができるかもしれません。

教養として学ぶ必要があるという言い方は、非常にざっくりとしています。とはいえ、古典的なものの見方や考え方が出来るように古典を学ぶのだという意見は、捨ておくことができません。


古典について必要だ、不要だとする意見はどれも幅広く、「それは違う」と安易に否定できないものばかりです。

ゼミの議論では、「古典とはそもそも何なのか」という「古典」という言葉が担う範疇を問う声や、「教養として学んでいる、ってどういうこと」といった曖昧な意見を具体的に追及する声が寄せられました。

続いて、「国語教育」との関連性から、古典の必要性について考えます。


2.古典を学ぶのは何のため?―国語教育との連関

古典を「国語教育」に照らして考えると、以下の疑問が浮かび上がってきます。

◎古典は国語科で学ばなければいけないのか

つまり、従来の国語教育としてではなく、新たな形で古典を学ぶことは出来ないのかということです。同時に、古典を学ぶ必要があるかについても考えます。

具体的には、次のようなあり方が考えられます。

  • 芸術科目にして、選択科目としてやりたい人だけが学ぶ
  • 古典という科目を廃止して、現代文に組みこむ

これまで、古典は「古典」「古文」「漢文」等の授業で扱われてきました。しかし、本当にそれでなければいけないのか。

ふと考えを変えてみれば、学校で古典を教えること自体が、国語の先生の自己満足(エゴ)なのではないかという考え方もできます。古典必要派に立つ国語の先生が、「古典は不要だ」と言われて、好きなものが否定されたような気持ちがして怒っているようにも見えますし、「古典が必修なのに、数学Ⅲは必修じゃないのはどうして?」という疑問も起こります。

では、古典を、必修科目として学ぶ意味、国語教育の領域に置く意味は何なのでしょうか。


☆1優先度

古典を学ぶ必要はないと考える人に対して、「数学は何の役に立っているの?」「英語はどういった時に役に立つの?」という疑問を投げかけると、半分くらいの人は黙ってしまうかもしれません。

「役に立つ」という言い方は実はかなり曖昧なもので、具体的に答えを出すことは難しいと言えます。そもそも、学校では「役に立つ」ことを教わらなければならないのでしょうか。

古典は一般的に実学(=習った知識や技術がそのまま社会生活の役に立つような学問)からは除外されます。実学とは、おもに医学・工学・商学などを指します。

とはいえ、「古典が社会で役に立たないのはホント?」と聞き返したくなるのも事実です。医学においても、昔の文献を参照して今の現代医学が成り立っているのであり、古典は欠かせない存在です。

ここで問題となるのが、先にも述べた「古典」の範疇の問題です。冷静に考えれば、問題の「古典」と医学の「古典」は全く別物のように感じられます。前者は、学校教育における授業科目、後者は医学という学問における古来の文献を指しています。

ゼミでも問題となったのは、「古典」ということばで一括りに考えてしまうと、議論が逸れてしまうということでした。本来、学校において古典を教えること、学ぶことの必要性について考えていたはずが、次第に「古典とは何か」という方向へ移ってしまったのです。

古来の文献として「古典」を考えた時に、「古典」はあらゆる学問の基礎にあると言ってよいかもしれません。学校の授業科目の「古典」にもそういった面があるでしょうか。

☆2芸術科目

古典を芸術科目として履修することは出来ないかという意見があります。

音楽や美術、書道のように選択科目に位置付け、興味のある人が自由に選択して学習するという提案です。

しかし、ここには大きな問題があります。音楽、美術、書道は実技として実際に歌を歌ったり、絵を描いたり、字を書いたりできる一方で、古典ではそれができないということです。

創作という領域は、古典というよりむしろ現代文で扱う内容です。中学生の時に、俳句や短歌を作ったことがある人は多いのではないでしょうか。

古典を芸術科目に位置付けるには、その創作が必然的に求められます。そうなると、これまで以上に文法や語彙の習得が必要となるでしょう。和歌を詠む、古文を書いてみるということは出来るかもしれませんが、学校においてそれを指導することには限界がありそうです。

☆3現代語訳

古典は、内容は優れているけど、文法や語彙が難しい。それなら、現代語に翻訳された教科書で内容だけ学習すればよいという意見は先にも述べました。

ただ、現代語訳したものを、そのまま「古典」と言ってよいのでしょうか。

古典は原文のままだからこそ、読解力向上にもつながる。現代の日本語は、元をたどれば古典が書かれたときの言葉が元になっているとも言えます。

現代語に翻訳するときに必ずぶち当たる壁は、和歌でしょう。和歌も現代日本語に翻訳して良いのかそもそも翻訳することなんてできるのか、疑問が残ります。

かの有名な物理学者ニュートンの著書に、『プリンキピア』(正式名称は‘Philosophiae naturalis principia mathematica’)があります。『プリンキピア』を読む際に重要となるのは内容ではない、と言われることがあり、語学を習得する書物として受容されることも多いのです。


国語教育との連関の下で「古典」を考えたとき、大事なこととしては

  • 古典の授業で教える/学ぶのは、内容だけじゃない
  • 遺すだけではなく、活用してこそ価値がある

ということではないでしょうか。


3.ゼミでの議論の論点とまとめ―おわりに

今回の企画は以下のようなメニューで行われました。

今回のファシリテーターとしては、学校教育における古典教育をテーマに議論をしたかったようですが、ゼミ員の議論はそれとは違ったところで盛り上がりを見せました。

《ゼミ員の議論まとめ》

  • 古典とは何か(古典の定義を問う)
  • 教養として古典を学ぶとは何か(教養と知識の差は?)
  • 国語において学ぶことに固執する必要はあるか
  • 古典を「味わう」とは何か
  • 「役に立つ」とは何か
  • 古典好きとは何か(「にわか」と「真のマニア」の違いとは?)
  • 古典を学ぶとは何か(研究することと一緒?)
  • 古典教育と歴史教育の違いは何か
  • 古典から得られるものは何か

ここでは、以上をゼミの議論内容としてまとめておきますが、ゼミ員からは他にも多くの意見が挙がりました


古典は必要か不要かを考えるにあたって、そもそも古典が何なのか問い直すことに議論が集中していました。議論時間が2時間に限られていたこともあり、深い議論には至りませんでしたが、単に学校教育に絞って考えるのではなく、「古典とは何か」、「教養として役に立つとはどういうことなのか」など幅広く考えることが必要だと気づくことができました。国語科の学生としても非常に学びの多い回だったと感じます。

ゼミの議論は、オンラインホワイトボードの「miro」を参照しつつ、オンライン会議ツール「Zoom」を用いて行いました。「miro」には事前にファシリテーターが準備したWebサイトのページの画像を貼り付けました。以下、そのWebサイトのURLです。

飯倉洋一「未来に活かす古典―「古典は本当に必要なのか」論争の総括と展望」(校正中)(荒木浩編『古典の未来学(仮)』文学通信、2020.10刊に掲載予定)

https://bungaku-report.com/blog/2020/06/202010.html

今回の企画で、以上のような議論材料を用意できたのは良かったと思います。インターネット上の記事を軸に議論が進めることができ、議論が円滑に行えました。企画・準備するファシリテーターの負担も減るため、今後の活動の参考にしていきたいです。

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